「この一年半のUWFの戦いが何であったかを確認するために新日本に来ました・・・試合を見ていてください・・・」 

キックとサブミッションの荒くれ二挺拳銃
第二次・UWF @

昭和60年12月26日 両国国技館
この日のメイン「IWGPタックリーグ」公式戦、アントニオ・猪木、坂口征二組×藤波辰巳、木村健吾組。その二組がリング上にそろったまさにその時!突如として現れたスーツ姿の男たち・・・。 会場を埋め尽くすファンのざわめきの中、突如現れた男達は無言のままリングの上にその姿をあらわにした・・・。 その先頭に立つ男の名は「前田 日明」・・・。
かつて新日本プロレスで期待の若手レスラーとして欧州修行にでる。・・・そして「欧州チャンピオン」のベルトを持っての凱旋。凱旋試合では当時の強豪「ポール・オンドーフ」をわずか129秒でマットに沈めた。その類まれなる素質と日本人離れした体格は「藤波に次ぐエース候補」と絶賛された。
その期待の若手が「己の格闘理念」を元にわずか2年足らずで新日本を離脱、前田と志を同じくする賛同者達で結成されたのが「UWF」。 これによって師匠アントニオ・猪木とは事実上、「袂を分かつ」事となる・・・。

「プロレス」でありながら「プロレス」とは一線を画す「プロレス」・・・一切の反則を許さず、場外乱闘も認めない。すべてのショー的要素を排除し、ストイックなまでにスタイルにこだわった試合展開で、旗揚げ以来「破竹の勢い」でプロレス界を席巻したUWF。周りからは「鉄の結束」とまで言われた。しかし、なんとそのUWFがわずか一年足らずで崩壊の憂き目に会うのである。これには諸説あるが、あたし個人としては「船頭多くして船山登る」と言うのが実際のところだと思う。  その後、前田日明は残った選手たちと共に「新生UWF」を結成。UWF精神はそのままに格闘スタイルの熟成を重ねていった・・・。 かつて「己の理念」の下、猪木のもとを去った前田日明、藤原喜明、木戸修、高田伸彦(延彦)、山崎一夫は「己の理念」を証明するために再び猪木の下に舞い戻ってきた・・。


黒髪のロペスピエール・前田 日明

Uを引っ張る前田にとって猪木を倒す事こそが「己の理念」が正しかったと言う事を証明できる唯一の方法であった。 したがって、それが叶わない、もしくは返り討ちの憂き目に会うようならば、それは前田にとって・・・いやUWFにとって「崩壊」を意味する・・・まさに崖っぷちの里帰りだった。 執拗に「団体対決」と「直接対決」を迫るUWFに対し、新日側は猪木と対戦するにはU同士で「挑戦者決定戦」を行う事を突きつける・・・。当然、UWF側としては納得出来る対応ではなかったが、「猪木との対戦」言う提示を出され、団体戦を行うための双方のルールの解釈の折り合いの調整等の理由をつけられては受け入れざるを得ない。UWFサイドは渋々だがこれを受け入れた。 しかし、この一件で前田の中で「何か」が芽生えたのは確かである・・・。

昭和61年 2月5日 大阪城ホール
UWFの5人によって行われる「挑戦者決定」総当たりリーグ戦は大方の予想通り、前田日明と藤原喜明の対決となった。 試合は序盤から前田は打撃、藤原は関節技と一進一退の技の応酬が繰り広げられた。 10分過ぎ、藤原が前田の命綱である「左足」をアキレス腱固めで決めるも、前田は体を反転させて防御姿勢をとる、それが勢いあまって両者リング下に・・・。尚も藤原は前田の左足を決め続け、12分28秒両者リングアウト。引き分けの無いこの試合は延長戦となる。しかし、この時必要なまでに決め続けた「アキレス腱固め」が、前田と藤原の明暗を分ける事となる・・・。 延長戦は打撃と関節技を駆使する前田が終始藤原を圧倒したが、5分過ぎ、アームロックを決められながらも体を入れ替え前田の左足首を固める藤原。すかさず前田も背後から藤原をスリーパーで締め上げる。 前田の裸締めで藤原が「落ちた」誰もがそう思った次の瞬間、前田は悶絶しながら片手を大きく振った・・・。藤原は落ちる間際にトーホールドで前田の足首をガッチリと決めたのだ。7分28秒 藤原がトーホールドで前田からギブアップを奪い、猪木への挑戦権を手中に収めた。 個人的な意見だが、あの「アキレス腱固め」の布石が無ければひょっとすると、勝者は前田だったかもしれないかな?とか思ったりなんかして(苦笑)。

試合後、普段あまり長居ををしない前田が珍しくマイクを取ると「今回のリーグ戦はお互い潰し合いの様になりましたが、俺たちは一秒でも手を抜いていない事を誓います・・。俺たちの代表者となった藤原さんを応援して下さい・・・」と言った・・。
それを聞いた藤原は、人目をはばかることなく目に涙を浮かべながら前田を抱擁した。

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